彩雲斎の雑記

令和のこどおじ 人畜無害に日和ってくstyle

宮沢賢治の詩

 小生は、宮沢賢治が好きだ。

 

 日本文学史上、最高峰だと本気で思っている訳でございます。

 

 小さな祈り、不可解な物語。宇宙と死とのはざま、若くして亡くなった妹への想い。

 

 どこか宗教的であったり、その思想染みた、神々しい文面の数々は、時に難解ではありますが、読んでいて退屈をする事はありません。

 

 ただ素晴らしい物語だけでなく、心揺さぶる詩も、沢山残している事を見逃してはいけません。

 

 春と修羅。

 心象スケッチが妙にしっくり来る。春の風が吹く、だだっ広い草原に立って、どこか苛立つ賢治の情景が浮かぶ。

 

 雨ニモマケズ。

 言わずもがな、超有名な庶民の悟り。つつがなく日常生活における、名言の集大成だとかんづる訳であります。

 

 しかし小生は、ちょっとマイナーではございますが、『雲とはんのき』と言う詩が、1番のお気に入りなのでございます。

 

 特に終盤、

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わづかにその山稜と雲との間には


あやしい光の微塵にみちた

幻惑の天がのぞき


またそのなかにはかがやきまばゆい

積雲の一列がこころも遠くならんでゐる


これら葬送行進曲の層雲の底
鳥もわたらない清澄(せいたう)な空間を


わたくしはたつたひとり

つぎからつぎと
冷たいあやしい幻想を抱きながら


一挺のかなづちを持つて
南の方へ石灰岩のいい層を
さがしに行かなければなりません

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 山歩きが好きな小生は、山頂と空の狭間、山道から、様々な雲を見上げては、いつもこの詩を黙読するのであります。

 

 一人で黙々と歩きながら、そして歩いたその先に、素敵な水晶の欠片、それらが眠る層が、きっとある事に違いないと、いつも心を躍らせる訳でございます。

 

 一聴して、孤独とも思える内容ではあるものの、そこに賢治の悲観は無いと思っているのであります。

 

 歳を重ねる程に、

 

 むしろ運命を受け入れ、おまへの、行きたい所へ、遠慮なく行くべきだと、紺碧の空を仰いで、透明の孔雀がいるのかもしれないと、かんづる訳であります。


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vs即身仏

 岐阜県の山奥に、即身仏の鎮座するお寺がありましたとさ。

 

 そもそも小生が即身仏を知るキッカケとなったのは、手塚治虫先生の『火の鳥 鳳凰編』を読んだ事に始まります。正確には、読んだと言うより、アニメ映画を見た事により、その物語を知り、かなりの衝撃を受け、小説まで購入し読みふけったものであります。

 

 その当時、小生は小学イチ年生。

 

 小生の読書嗜好や、神社仏閣好きは、ここが原点ではないかと、今更思っております。そしてエンディングもまた神曲。火の鳥は、六道輪廻をテーマに、様々な時代背景を舞台に、何編か存在し、それぞれ面白いのですが、

 

 中でも傑作名高いのは、やはり鳳凰編。

 

 登場人物の1人、『良弁上人』が最後に即身仏になる場面に、人間を超えた仏へと昇華する過程と、想像を絶する悟りの境地を、7歳ながらに、理解したような気がしたのです。

 

 あくまで、したのです。

 

 想像してみてほしい。

 

 暗く狭い樽の中で、絶命するまで念仏を唱え続けるって?なに。幼少期の恐怖体験そのものじゃないの。

 

 暗い押し入れに閉じ込められ、水も食事も無い監禁状態である。閉所・暗所・孤独と飢え、、、そして計り知れぬ死への恐怖。

 

 もうそれだけで気が狂っちまいそうだ。

 

 精神世界の最果て、死すら凌駕したその向こう側に何を抱き、まことの境地があると言うのでしょうか。

 

 涅槃への憧れか、自己満足か。

 己の身を賭することが、

 民衆の小さな祈りへの答えなのか。

 俗世の絶望か。

 来世への希望か。

 

 入口は違えど、一種の自殺行為にも関わらず、強い信仰心の為せる業か、何の為に祈り、気高いまま息絶えるのか。

 

 絶命する事こそが大願成就、その過程こそ俗世に蔓延る、煩悩も恐怖も全て克服した者の証、人間からの解脱、仏への昇華だと理解したのです。わたし。

 

 それは木彫りや、鋳造された偶像でも何者でもない、人間そのものが仏へ化身した誠の姿。

 

 いや、少しは迷いもあったかもしれない。

 

 インターネットの普及により、岐阜県の山深き里に、良弁上人ではありませんが、正真正銘の即身仏に出会える寺がある事を、随分、大人になってから知りました。

 

 すなわち即身仏とは、悟りの最高峰、その偉業を知り得てから、約30年以上の時を経て、小生はいよいよ、本物の即身仏に会いに行ったのです。

 

 初めて即身仏と対面したとき、何故か全身が冷え、意識が高く舞い上がるのを感じました。幽体離脱。その凹んでいながらも見開いたような眼光に、重い目眩を覚え、3次元の自分を見下ろし、追憶の断片が、無軌道にフラッシュバックし、身動き1つ取れなくなりました。

 

 ものすごい霊圧だ。

 

 己への最大の暴力、生へ慈しみではなく、死への憧れ。

 

 生きる事への本能を真っ向から拒否、その臨界点を突破し、仏へ化身した、妙心上人、御年37歳。

 

 脳内へダイレクトに、か、むしろ小生の生霊が即身仏へフュージョンし、訳の解らない渦巻きに巻き込まれ、その中心に妙心上人が居る。その渦巻きを溺れながら小生が、苦しみもがいているのです。

 

 何を思い、誰の為に、最期は何を悟り得てそのお姿になったのか、小生がここへ来る事を、まるで知っていたかような、その厳しくも優しい仏の表情。

 

 、、、ごめんなさい。

 

 訳もなく謝っていました。 

 

 そしてふっと軽く、我に返るのでした。

 

 別に興味本位で貴方に会いに来た訳じゃありません。それもあるけど、ずっとずっと即身仏に会いたかった。ただそれだけです。

 

 でも今日会いに来たのは、きっと意味があるような気がしました。貴方の生を賭して辿り着いた、気高きその境地。その時の年齢と、今あまり変わりない小生です。

 

 この対面は、即ち必然であり、実は、多分、きっと、小生は何かが限界だったに違いない。そう悟ったのでありました。

 

 今日いま、この瞬間から、

 心を入れ換えます。

 ありがとう。南無。

 貴方に会えて良かった。心より合掌。


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アルトとAC/DC

 時々音楽ネタになります。

 

 アップダウンの激しい田舎のロード。母親に借りた軽自動車を運転していると、急な上り坂は、その非力さに、いささか気が滅入る訳であります。エアコンなど付けようモノなら、その非力さが更にブーストされ、減速が加速する負の連鎖が巻き起こる訳です。

 

 そんな時こそ、もはや生ける伝説、モンスターロックバンド、AC/DCを控えめな音量で流す事にしている。

 

 「軽自動車と、ロックバンド」

 

 広大な地平線に向かって、爽快に爆走するピックアップトラックでは、決してないギャップ。

 

 厄介な8ビートでございます。まるで心拍数に呼応するかのように、一貫してブレない無駄の無いドラミングが心地良き。

 

 所々、単音を織り交ぜつつ、シンプル且つワイルドなギターリフと、その隙間を軽やかにリズムキープする2本のギター。グルーヴィでラウドに、そのビートに絡みついております。

 

 まるでビートに音を置いて行くかの如く、地を這うようなベースサウンドは、曲の下手部分を見事に支えています。

 

 クセの強いボーカルは、それらのグルーヴを乗りこなし、ロックに有りがちなデス・ヴォイスらしからぬ、キャッチー&コミカルなメロディで更に曲を引き立てております。

 

 よくこれだけのメンツが集まったもんだ。

 

 と、思う訳でございます。それぞれがお互いのポテンシャルを高め合い、聴衆を無意識にテンションアップさせる中毒性。

 

 一聴しただけで解るそのインパクト。大衆を意識してかどうか、大ホールの聴衆を巻き込んで、会場全体がウネリを上げること請合い、見事なまでのロックグルーヴ。

 

 軽自動車の中で、大アリーナライブを擬体感しながら、今日も信号の全く無い田舎ロードを、むしろ安全運転に、精一杯心掛ける次第であります。

 

 アンガスはよく、牛のツノを被っているので、近所の牧場写真をパシャリ。

 


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Coccoの魔力

 少し前の世間話ではありますが、アムロちゃんの引退表明を見た時、小生には忘れられない、もうひとりの歌姫の事を想いました。

 

 いち時代を築いたアムロちゃんは、常に若い女子たちに、憧れや影響を与え、ずっとずっと輝いていました。キュートな容姿も歌声もダンスも、非の打ち所の無い、正真正銘のアーティストでした。

 

 誤解を恐れずに言えば、それとは別次元で、どこか危うさを内包しつつ、その佇まいから歌声まで、心の秘境駅と言うか、古傷を癒やすかのようにそっと響く、奇妙な魅力を放っていたのがCoccoさんでした。

 

 またまた誤解を恐れずに言えば、まさにそれは陰と陽。今風だと、コッコはだんだんジワる。その歌声は、小生にとっては未だ普遍的に優しく強く、壮絶かつ美しい。

 

 その次元について、表現が見つからないのですが、打ちのめされた心の痛みや、淡く苦しい思い出、沖縄の海に対する郷土愛など、歌い方にも、その華奢な容姿からは、計測不可能なほど危険な振り幅があり、小生は魅了され続けている訳です。

 

 彼女について、そのプライベートは謎は多く、憶測から中傷的、様々な情報がありますが、そんなことはどうでも良く、その神秘的であるが故、今も小生にとって大切な存在である訳です。

 

 最近、シンガーとしての活動再開を耳にする事が多くなり、小生にとっても喜ばしい限りです。大袈裟かもしれませんが、彼女の歌に救われた事もあるのです。

 

 実は同い年と言うのは、ここだけの秘密ですが、同世代に、こんなにも素晴らしいアーティストが存在する事を誇らしく思う訳です。

 

 まぁ、いいから聴けよ、、、云々、他人から言われても、どこか上の空になりがち。どうしても同調を求めてしまいがちな話ではございますから、あーあれね、と軽い相槌を打ちながら、読み流す事にして下さい。

 

 しかしそんな『かけがえのない』曲は誰にでもあると思います。小生にとってCoccoはまさにそんなアイコンであり、今日も朝から彼女の歌声に癒やされる訳です。

 

 抱えきれない悲しみ、両手いっぱいの思い出、ずっと昔に嗅いだ匂いや、景色に連れ戻されつつ、そんな歌詞をなぞると、実は言葉が1番凶器になり、思わず発した言葉、苦し紛れに言われた言葉、取り返しの付かないひとことふたこと、1人悶え苦しむ訳でございます。

 

 そしてまた、

 

 そしてまた、そのいつかの場所へ、ついつい行きたくなったりする訳です。

 

 いつか、いつか、ばかりではありますが、いつか彼女の歌声を横に、ギターを弾いてみたいと思っております。

 

 そんな訳で、思い出の雪道を1枚。


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水晶山のおもひで

 小生の田舎は鉱物が豊富に採れる、稀有な地層地帯であります。そんな知る人ぞ知る土地柄であります。化石をはじめ、危険な鉱物まで。

 

 幼き頃は、山を分け入って、土と戯れ、地球に眠る素敵な天然の宝石を、日が暮れるまで探し回ったのです。

 

 時代は流れ、令和となった訳ですが、昭和が終焉し、平成になった頃には、勝手な入山など言語道断と、罰金の立て札によって、至る山々は入山者を牽制し、そうした楽しみ方も減りつつあった時代であります。

 

 春の山菜狩り、秋の味覚狩り、そうした嗜みに関するモラルの低下も著しく、まぁ当然ちゃあ当然の対策ではあります。

 

 だが小生は、晴れた休日ともなれば、スコップ片手に、公共の一般遊歩道の脇などを散策しながら、目ぼしい地層をちょっと掘ってみるだけでも、細かい水晶石が転がり出てきます。

 

 なぜに六角の見事な結晶になるのか、今の御時世グーグル先生に聞けばすぐ解ることですので、敢えて書きません。

 

 むしろ、どれくらいの年月を掛けて、これほどまでに神秘で魅力的な鉱物へ形成されて行くのか、そこに浪漫を感じる訳であります。土の中での出来事は、誰も解らないのです。むしろ解らないままでいいのです。

 

 買えば済むモノ、インターネットの普及は、検索から購入、配達まで、様々な時間を短縮し、便利で秀逸な世の中を形成致しました。しかしいつ出てくるのかわからない、そんな期待感を胸に、夢中で土と戯れる時間こそ、忘れかけていた最高に贅沢な宝なのであります。

 

 時々そんなスローライフを嗜む小生が、一心不乱に掘り当てた、生涯の宝、見事なクラスターをご拝見ください。

 


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