彩雲斎の雑記

令和のこどおじ 人畜無害に日和ってくstyle

聖地巡礼と鉄道

 一世風靡。空前のヒットアニメ。

『君の名は』

 

 アニメと言えば、真っ先にジブリシリーズが思い浮かぶ老若男女は多いだろうと思います。

 

 数年前の話しではあります。当初、さほど気にも止めてはいなかった小生であったのですが、時折、小生が生活圏としている場所が描写されている事を耳にし、上映期間終了となる前に、『君の名は』を観に行ったのでございます。

 

 映画のストーリーは敢えて控えますが、素直に面白かったです。ヒロインの日常が、概ね高山線がモデルとなっているシーンが多々ございます。

 

 特に飛騨古川駅。

 

 飛騨古川と言えば、小生にとっては、円空仏でも縁のある地なのですが、その駅舎を見下ろすワンシーンが、飛騨古川駅そのものだと言うのです。

 

 そこで『アニメ聖地巡礼』と言う、近年新たに登場した新興文化に便乗する事に致しました。

 

 何故かと言いますと、そのシーンは、鉄道の有識者たちによれば、通常運行しているダイヤでは、あり得ない場所に、列車が停まっている、らしいのです。

 

 しかし某鉄道会社も、こうした映画のヒットを受けて、臨時急行を意図的に運行し、映画のワンシーンを再現する、便乗商法・集客作戦に出たのでごさいます。

 

 そして自然豊かな高山線の旅。

 

 車内では、イベント急行だからなのか、過剰なまでに、たくさんのおもてなしを受けながら、飛騨古川駅に到着したのであります。

 

 若干の差異はあるものの、問題のシーンを撮影しようと、鉄道マニアから、映画ファン、カメラ女子に紛れ、この粋な計らいを、安物スマホで撮影する事ができました。

 

 もはや、随分古いネタではございますが、時にゆったりとくつろぐ鉄道の旅も、悪くないと、また、別の田舎へ鉄旅を模索する小生でありました。

 

 『急行ぬくもり飛騨路号』は、現在も、時々運行しておるようです。


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宮沢賢治の詩

 小生は、宮沢賢治が好きだ。

 

 日本文学史上、最高峰だと本気で思っている訳でございます。

 

 小さな祈り、不可解な物語。宇宙と死とのはざま、若くして亡くなった妹への想い。

 

 どこか宗教的であったり、その思想染みた、神々しい文面の数々は、時に難解ではありますが、読んでいて退屈をする事はありません。

 

 ただ素晴らしい物語だけでなく、心揺さぶる詩も、沢山残している事を見逃してはいけません。

 

 春と修羅。

 心象スケッチが妙にしっくり来る。春の風が吹く、だだっ広い草原に立って、どこか苛立つ賢治の情景が浮かぶ。

 

 雨ニモマケズ。

 言わずもがな、超有名な庶民の悟り。つつがなく日常生活における、名言の集大成だとかんづる訳であります。

 

 しかし小生は、ちょっとマイナーではございますが、『雲とはんのき』と言う詩が、1番のお気に入りなのでございます。

 

 特に終盤、

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わづかにその山稜と雲との間には


あやしい光の微塵にみちた

幻惑の天がのぞき


またそのなかにはかがやきまばゆい

積雲の一列がこころも遠くならんでゐる


これら葬送行進曲の層雲の底
鳥もわたらない清澄(せいたう)な空間を


わたくしはたつたひとり

つぎからつぎと
冷たいあやしい幻想を抱きながら


一挺のかなづちを持つて
南の方へ石灰岩のいい層を
さがしに行かなければなりません

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 山歩きが好きな小生は、山頂と空の狭間、山道から、様々な雲を見上げては、いつもこの詩を黙読するのであります。

 

 一人で黙々と歩きながら、そして歩いたその先に、素敵な水晶の欠片、それらが眠る層が、きっとある事に違いないと、いつも心を躍らせる訳でございます。

 

 一聴して、孤独とも思える内容ではあるものの、そこに賢治の悲観は無いと思っているのであります。

 

 歳を重ねる程に、

 

 むしろ運命を受け入れ、おまへの、行きたい所へ、遠慮なく行くべきだと、紺碧の空を仰いで、透明の孔雀がいるのかもしれないと、かんづる訳であります。


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天狗峠の雲海

 雨が降った翌朝、小生はある場所へ、原付きを走らせるのでございます。

 

 それは雨後、わづかな可能性に胸を踊らせているのでございます。

 

 中仙道『天狗峠』からの雲海を見るためである。

 

 行ってみないと解らない、その大気の自然現象について、公式に雲海と呼んでいいものか、少々の疑問はございます。

 

 標高はおよそ500メートルほどの、峠の頂上。天気が良い日は、山々の山頂がパノラマに広がり、見下ろす木曽川雄大なエメラルドに染まる、小生お気に入りの癒やし場所。

 

 しかし今日はひと味ちがうのでございます。雨上がりの、鬱蒼とした怪しい気配、息を切らし、峠の頂上を目指し、そこから目下を見下ろしても木曽川は見えず、代わりに川に沿ってウネルその現象は、雲海では無く『霧海』だと思われる。

 

 雲と霧の判別について、森林限界を超えて、今にも飛び移れそうな、それとは違い、小生の知識では説明しきる事はできません。

 

 木曽川を飲み込み、むしろその上を這いずるように、そして周辺の山すら、その頂きの他が霞むほど、オドロオドロしく、白く重たい空気の層が、パノラマに広がっているのでございます。

 

 いつも見下ろす絶景とは、まるで表情の違う趣き。こんな日も有りだと思う今日このごろでございます。


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即身仏への想い

 岐阜県の山奥に、即身仏の鎮座するお寺があるのでございます。

 

 そもそも即身仏を知るキッカケともなったのは、手塚治虫先生の『火の鳥鳳凰編』を読んだ事に始まります。

 

 正確には、読んだと言うより、映画を見た事により、その物語を知り、かなりの衝撃を受け、小説まで購入し読みふけったものであります。

 

 その当時、小生は小学イチ年生。

 

 小生の読書嗜好や、神社仏閣好きは、ここが原点ではないかと、今更思っております。

 

 火の鳥そのものも、輪廻をテーマに、様々な背景を舞台に、充分深く面白いのでございます。

 

 しかし、傑作名高いのは鳳凰編。

 

 登場人物の1人、『良弁上人』が最後に即身仏になる場面に、人間を超えた仏へと昇華する過程と、想像を絶する悟りの境地を、8歳ながらに、理解したような気がしたのでございます。

 

 あくまで気がしたのです。

 

 想像してみてほしい。

 

 暗く狭い樽の中で、絶命するまで念仏を唱え続けること。

 

 暗い押し入れに閉じ込められ、水も食事も無い監禁状態である。閉所・暗所・孤独と飢え…そして計り知れぬ死への恐怖。

 

 もうそれだけで気が狂っちまいそうだ。

 

 そうした精神世界の最果て、死すら凌駕したその向こう側に何を抱き、まことの境地があると言うのでしょうか。

 

 その涅槃への憧れは、自己満足なのか。

 

 己の身を賭す事が、

 民衆の小さな祈りへの答えなのか。

 

 俗世の絶望か、来世へ希望か。

 

 一種の自殺行為にも関わらず、強い信仰心の為せる業か、何の為に祈り、気高いまま息絶えるのか。

 

 絶命する事こそが大願成就、その目的を果たす事こそ、俗世に蔓延る、煩悩も恐怖も全て克服した証、人間からの解脱、仏への昇華だと言う事なのでしょうか。

 

 それは木彫りや、鋳造された偶像でも何者でもない、人間そのものが仏へ化身した誠の姿。

 

 いや、少しは迷いもあったかもしれない。

 

 インターネットの普及により、岐阜県の山深き里に、良弁上人ではありませんが、正真正銘の即身仏に出会える寺がある事を、随分、大人になってから知りました。

 

 即身仏と言う大乗仏教の最高峰、その偉業を知り得てから、約30年以上の時を経て、小生はいよいよ本物の即身仏に会いに行ったのでございます。

 

 初めて即身仏と対面したとき、何故か全身が冷え、その凹んでいながらも見開いたような眼光に、重い目眩を覚え、これまでの様々な悪行(笑)がフラッシュバックし、身動き1つ取れなくなったのでございます。

 

 ものすごい霊圧だった。

 

 己への最大の暴力、生へ慈しみではなく、死への憧れ。

 

 生きる事への本能を拒否し、その臨界点を突破、仏へ化身した、妙心上人、御年37歳。

 

 脳内へダイレクトに、か、むしろ小生の生霊が即身仏へフュージョンし、訳の解らない渦巻きに巻き込まれ、その中心に妙心上人が居る。その渦巻きを溺れながら小生が、苦しみもがいているのでございます。

 

 何を思い、誰の為に、最期は何を悟り得てそのお姿になったのか、小生がここへ来る事を、まるで知っていたかような、その厳しくも優しい仏の表情。

 

 、、、ごめんなさい。

 

 訳もなく謝っていました。 

 

 そしてふっと軽く、我に返るのでごさいました。

 

 別に興味本位で貴方に会いに来た訳じゃありません。それもあるけど、ずっとずっと即身仏に会いたかった。ただそれだけです。

 

 でも今日会いに来たのは、きっと意味があるように気付かされたようでした。貴方の生を賭して辿り着いた、気高きその境地。その時の年齢と、今あまり変わりない小生です。

 

 この対面は、即ち必然であり、実は、多分、きっと、小生は何かが限界だったに違いない。そう悟ったのでありました。

 

 今日いま、この瞬間から、

 心を入れ換えます。

 ありがとう。南無。

 貴方に会えて良かった。心より合掌。


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マスカケ&ますかけ

 ますかけ線。

 

 いわゆる『百握り』と言われる手相の事でございます。

 

 手相には、それぞれの線(シワ?)に様々な意味があるようで、その人生そのものを決定づける、運命と何やら浅い結びつきがあるようです。

 

 なんのこっちゃ。

 

 とは言うものの、こうした占事とは、思わず照らし合わせて、現状や未来、確信や期待など、精神バランスに、一役買っているのも否めない事実であります。

 

 しかしながら、全く同じ手の大きさで、全く同じ手相を持つ、全くの別人同士が、全く同じ運命を辿るものなのか。

 

 生命と輪廻の未知、まだ検証の余地が残されていそう。全く同じ手相を持つ2人の、類似する数奇な運命。

 

 人類史上最高のミステリーに挑む価値がありそうで、無いような悪寒。

 

 実はと言えば、小生はその『マスカケ線』の持ち主。しかも両手。何万人に1人の確率とか。微妙に嬉しく、なんか誇らしい。

 

 人は時々、自分自身のマイノリティさを、怪しい自我によって、酔いしれる癖がある様でございます。

 

 そしてそれらは行き過ぎると、ただの自慢や承認欲求の権化となり、忌み嫌われる原因にも繋がっているようにも思えます。

 

『マスカケ線とは、感情線と頭脳線が一直線になっており、非凡・天才肌で、存在感の強さや、類まれなセンスで人を惹きつけがちな大物。運を掴んだら離さない、逆境ほど、その才能を発揮しがち。』

 

 なんかかっこいい、、、。

 

 〜がち、な曖昧な説明が溢れておる訳でありますが、一方では、いわゆるただの先天的奇形との解釈もあり、その証拠に、猿の手は皆、マスカケだとか。

 

 手だけ、ミッシングリンク。

 

 もはやマスカケを持たざる先進人類らによる、誹謗中傷か、嫉妬に近いのでは?と掻い潜る訳でございます。

 

 なにはともあれ、社会的に大成している著名人には、なんの偶然か、このマスカケ持ちが多いようでございます。

 

 なんとかデータバンク参照でしょうか。真意は不明であります。

 

 斯々然々、なんか自慢したくなるけど、小生はと言えば、別に大したことない、普通の人生を歩んでおります。

 

 と、思っております。

 

 振り返ってみれば、本人が意に介さないだけで、実は混沌とした、退屈のない人生なのかもしれません。特に死ぬまでこのまんまでも、いいかな。

 

 天下人、徳川家康公の手相は、正真正銘マスカケである。


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