彩雲斎の雑記

令和のこどおじ 人畜無害に日和ってくstyle

即身仏への想い

 岐阜県の山奥に、即身仏の鎮座するお寺があるのでございます。

 

 そもそも即身仏を知るキッカケともなったのは、手塚治虫先生の『火の鳥鳳凰編』を読んだ事に始まります。

 

 正確には、読んだと言うより、映画を見た事により、その物語を知り、かなりの衝撃を受け、小説まで購入し読みふけったものであります。

 

 その当時、小生は小学イチ年生。

 

 小生の読書嗜好や、神社仏閣好きは、ここが原点ではないかと、今更思っております。

 

 火の鳥そのものも、輪廻をテーマに、様々な背景を舞台に、充分深く面白いのでございます。

 

 しかし、傑作名高いのは鳳凰編。

 

 登場人物の1人、『良弁上人』が最後に即身仏になる場面に、人間を超えた仏へと昇華する過程と、想像を絶する悟りの境地を、8歳ながらに、理解したような気がしたのでございます。

 

 あくまで気がしたのです。

 

 想像してみてほしい。

 

 暗く狭い樽の中で、絶命するまで念仏を唱え続けること。

 

 暗い押し入れに閉じ込められ、水も食事も無い監禁状態である。閉所・暗所・孤独と飢え…そして計り知れぬ死への恐怖。

 

 もうそれだけで気が狂っちまいそうだ。

 

 そうした精神世界の最果て、死すら凌駕したその向こう側に何を抱き、まことの境地があると言うのでしょうか。

 

 その涅槃への憧れは、自己満足なのか。

 

 己の身を賭す事が、

 民衆の小さな祈りへの答えなのか。

 

 俗世の絶望か、来世へ希望か。

 

 一種の自殺行為にも関わらず、強い信仰心の為せる業か、何の為に祈り、気高いまま息絶えるのか。

 

 絶命する事こそが大願成就、その目的を果たす事こそ、俗世に蔓延る、煩悩も恐怖も全て克服した証、人間からの解脱、仏への昇華だと言う事なのでしょうか。

 

 それは木彫りや、鋳造された偶像でも何者でもない、人間そのものが仏へ化身した誠の姿。

 

 いや、少しは迷いもあったかもしれない。

 

 インターネットの普及により、岐阜県の山深き里に、良弁上人ではありませんが、正真正銘の即身仏に出会える寺がある事を、随分、大人になってから知りました。

 

 即身仏と言う大乗仏教の最高峰、その偉業を知り得てから、約30年以上の時を経て、小生はいよいよ本物の即身仏に会いに行ったのでございます。

 

 初めて即身仏と対面したとき、何故か全身が冷え、その凹んでいながらも見開いたような眼光に、重い目眩を覚え、これまでの様々な悪行(笑)がフラッシュバックし、身動き1つ取れなくなったのでございます。

 

 ものすごい霊圧だった。

 

 己への最大の暴力、生へ慈しみではなく、死への憧れ。

 

 生きる事への本能を拒否し、その臨界点を突破、仏へ化身した、妙心上人、御年37歳。

 

 脳内へダイレクトに、か、むしろ小生の生霊が即身仏へフュージョンし、訳の解らない渦巻きに巻き込まれ、その中心に妙心上人が居る。その渦巻きを溺れながら小生が、苦しみもがいているのでございます。

 

 何を思い、誰の為に、最期は何を悟り得てそのお姿になったのか、小生がここへ来る事を、まるで知っていたかような、その厳しくも優しい仏の表情。

 

 、、、ごめんなさい。

 

 訳もなく謝っていました。 

 

 そしてふっと軽く、我に返るのでごさいました。

 

 別に興味本位で貴方に会いに来た訳じゃありません。それもあるけど、ずっとずっと即身仏に会いたかった。ただそれだけです。

 

 でも今日会いに来たのは、きっと意味があるように気付かされたようでした。貴方の生を賭して辿り着いた、気高きその境地。その時の年齢と、今あまり変わりない小生です。

 

 この対面は、即ち必然であり、実は、多分、きっと、小生は何かが限界だったに違いない。そう悟ったのでありました。

 

 今日いま、この瞬間から、

 心を入れ換えます。

 ありがとう。南無。

 貴方に会えて良かった。心より合掌。


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